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83歳筆者の「言いたい放題」(後編)...「歩く」苦痛をどう減らすか

ぶらいおん

ぶらいおん

2017.01.24 11:00
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画像はイメージです(Sunny Ripertさん撮影、Flickrより)
Banc de poissons

前編に続き、ぶらいおんさんの「言いたい放題」。80歳を過ぎて以来、「歩く」ということも辛くなってきた結果、運動量も減ってしまい、身体にもいくつかの異変が。

なんとか「歩く」習慣を維持するため、ぶらいおんさんが始めた行動とは。

「お歳なのだから...」とは言われたくない

   前回のコラムでは、70代まではルーティンであった散歩ですら、80を境として、その実行に際して可成りの努力と、多少の苦痛すら伴わなければ、実現できなくなった高齢者の嘆きについて、述べた。

   ところが、この度、その問題を略クリアできる方法に気付いた。

   と言っても、実はそんなに勿体を付けるほどの画期的な方策というわけでも無いのだが...。

   それは、東京へ出掛けて、帰って来ると、(実は、昨年末にも2度ほど東京へ出掛けた。同年配で先に逝ってしまった友人の墓参りなども果たしたが、それと共に、専ら特定企画の美術展を鑑賞する目的もあって、具体例を挙げれば、平塚市美術館の「香月泰男と丸木位里・俊、そして川田喜久治」展や国立新美術館の「ダリ」展、森美術館の「宇宙と芸術」展や、新しくオープンした「すみだ北斎美術館」の訪問などである。)その後は、必ず足が軽くなる。

   どういうことか?と言えば、東京から戻って来た翌日、散歩などしてみると、何時もに比べて、楽に歩けるように感じるのである。その理由は容易に推測出来る。それは、東京へ出ると、否応なく「歩く」からである。地下鉄に乗るにしろ、JRにしろ、その他の私鉄にしても、先ず、駅までは歩かなければならず、駅に入れば、改札口から乗車ホームまで階段か、エスカレーターか、たとえエレベーターを利用したとしても、その場所まで、そしてエレベーターを降りてから当然、電車の乗降口まで足を運ばねばならない。

   東京は地方に比べて圧倒的に、歩くべきところが多い。地方では、人々は直ぐに車に乗ってしまう。私のように東京で生まれ、長年東京で暮らした者から見ると、地方に暮らす人達はホンの近場でも、気安く車に乗って移動する。

   実は、その悪弊が、いつの間にか、自分にも、特に体力が落ちてからは、身についてしまったらしい。それまでは、なるべく徒歩で行くようにしたり、自転車利用で出掛けていたような場所にも、安易に車を利用するようになってしまっていた。

   更に、筆者が一日で過ごす時間の中で、一番長いのは、このデスクトップPCを配置したデスクの前に腰掛けている時間、ということになる。これが、また背骨や腰に大きな負担を掛けているようだ。

   健康を維持するためには、誰でも「歩く」ことが一番というのは定説である。特に、高齢者には推奨されている。認知症になると、早足に真っ直ぐ歩くことも、うまく出来なくなるらしい。だから、「歩き方」で認知症を判断する事ができる、と聞いたこともある。

   実は、筆者の体重は、これまで殆ど変化らしいものはみられず、安定しており、30代くらいから80歳になっても、殆ど一定に、簡単に維持できていた。それが、この1年くらいの間に崩れてしまい、下腹がせり出して来た。丁度、60代初めに癌で亡くなった父のお腹のようになってしまった。その結果、若い頃に作ったり、購入して、今まで何のトラブルも無く、身につけていたズボンが殆ど全て穿けなくなってしまった。

   結局、食べた食物のカロリーを適切に燃焼させることが出来ず、それが、不要な体脂肪としてお腹の周りに残留する結果となったのだろう。

   また、筆者は、従来から特別な運動はして居らず(水泳だけは別であったが、これも80代となってからは中止している。)、従って、せめて散歩(ウォーキング)くらいは、やらないと全くの運動不足となり、体脂肪を減らすどころか、体力の衰えを遅らせることすら、出来かねない事態に立ち至ってしまった。

   何としても、これまで70代くらいまで続けて来た状態に近い「散歩」を実現させねばならない事態となったとき、東京から帰ってきた際の「足の軽さ」に気付いた。

   結局、あれこれ理由付けするより、実際に毎日、ひたすら「歩くこと」を継続することが求められているわけだ。おかしな言い方になるかも知れぬが、足を軽くするためには、結局、積極的に「歩く」しか無いのだ。

   そのためには、先ず、「歩く」際の苦痛の軽減を図らねばならぬ。そのためのヒントが東京での行動の中に示されていた。

   何と言うことは無い。それは、単に、杖を利用して歩く、というだけのことなのだ。これまで、筆者は地元での散歩に際して、敢えて杖を利用しないで歩くことばかり考えて、努力していた。そうやって、訓練することにより、必要な外出時に、杖を利用すれば、十分余裕を持って歩けるだろう、と単純に考えて来た。

   しかし、それは実際には、大きな間違いだったのだ。杖を利用しない散歩が、「歩く」際の苦痛を増し、結果的に「散歩」自体を回避しよう、逃れよう、という消極的な態度をとらせる、という悪循環を招いていたのである。

   それに気付いて、それからは海岸を散歩する際、愛用の軽くて、折り畳める(東京等への外出時には、手放すことの無い)杖を必ず持参して歩くことにした。

   筆者が杖をつくと言っても、実は常時杖に、全体重を掛けるような使い方はしていない。無論、可成りの距離を歩いたときは段々、杖に大きな力を掛けているが、それほどでも無いときは、軽く保持するだけで余り、杖に頼っていないこともある。

   にも拘わらず、外出時に杖を携えている、というだけで、随分気持ちも、効果も異なるのである。

   勿論、これだけで散歩の苦痛が減り、それが楽しくなって来た、というわけでは無い。

   もう一つ、大事なことがある。それは、具体的に次のようなエクササイズを実行することだ。

   この海岸の散歩道には、途中にベンチが置いてある。それも、色々で、背もたれがあり、背中に合わせたカーブを有するものや、背もたれを全く備えていないベンチ、丁度少しばかり昔、庶民の暮らす路地裏などでは、よく見掛けることの出来た縁台のように、ただ腰掛けるためだけの平らな台と、それを支える4本の足だけという簡単な代物だ。

   この後者の縁台のようなベンチを選び、腰掛ける部分に当たる平らな板から、自分の足だけ「ぶらぶら」と自由に垂らしながら、背中部分を平らな板に出来るだけ密着させて仰臥し、思い切って背筋を伸ばす。

   最初は、曲がった背筋が多少抵抗するが、ゆっくりと手足を伸ばすことによって、前屈みになっていた背筋が気持ちよく伸ばされる。多分、ストレッチでは、こんな姿勢をとるのだろうが、筆者のは、全くの自己流である。

   しかし、このストレッチ(?)は可成り有効である。これを終えた後は、杖が無くても、自分にしては、可成り大幅で、かつ可成りの速度で、姿勢も可成り真っ直ぐな状態(飽くまで、自分としては...、ということなのだが)さっさと歩ける(略、70代や、それ以前のように)。

   これを所々のベンチで繰り返しながら散歩すると、余り「歩行」を意識すること無く、気持ちよく歩けることに気付き、それ以来、殆ど毎日1回は必ず、場合により朝晩2回散歩するようになった。

   このように成果を上げて、今まで片道約数百メートルに過ぎない距離にある掛かり付けの内科クリニックに出掛けるのでさえ、車を利用していたのを止めて、徒歩で苦痛も無く、通えるようになった。

   ところが、このクリニックで若い医師から、前回の血液検査の結果の説明があった際、他は異常が無いのに、「腫瘍マーカー」の値だけが平均値より若干高い、と告げられた。

   医師は「お歳なのだから...。」と前置きしたのだが、このセリフは気に入らない。「差別」だ、とまでは言わないにしても、そこには、矢張りなにがしかの「偏見」と言ったようなものを感ずる。

   その後の言葉は、こう続く。「前立腺肥大乃至前立腺癌」を疑ってもいいのでは無いか?だから、専門医の診察を受けることを強く推奨する、というものだった。

   「前立腺肥大」が高齢男性について、圧倒的に多い疾病である、ということは無論、承知している。頻尿や残尿感のことも知っているが、筆者の場合、その症状で特に困惑し、日常生活でも大いに不便を感じる、と言うほどのことは事実上ない。

   それで、一時は県立医大で診察を受けようか?とも真剣に考えたが、今は、結局、特別な処置や対応は、取り敢えず、しないことにした。

   その判断と、それに至る経緯は次のようなものだ。

   すなわち、(1)たった1回の血液検査の数値に振り回されて、拙速な結論を出す必要は無いだろう。

   (2)前立腺肥大症状だと、男性ホルモン、すなわちテストステロンの影響を考えて、このホルモンの分泌を抑える投薬などをされる可能性が高いだろう。

   (3)場合によると、手術によって前立腺自体の摘出を、強く薦められる可能性も高い。しかし、前立腺という器官は、或る意味で、男性にとっては非常に重要な部位であることを、筆者は識っているし、また、特別に意識もしている。

   無論、今回の血液検査の結果について、専門医が処置するに際して、患者の意向を全く無視するようなことは、今の医療では、先ずあるまい。

   しかし、医師としては、出来るだけ安易に、安全策を採ろうとするであろうことも、また容易に想像できる。

   つまり、悪性の前立腺癌などに至る前に、その恐れのある源を除去して置こう、と先ず医師は考えるのでは無いだろうか?(今上陛下の例を挙げるまでも無く。)

   だって、80歳を超えた男に「男性機能」など、もう無用に決まっている、と思い込んでいる可能性は高いに違いない。

   しかし、少なくとも筆者の考えは、そうでは無い。

   「男」は、人としての生命が続く限り「男性機能を有した」本当の意味での「男」でなければならない、と半ば確信している。

   だから、逆に言えば、「男性機能」を喪失するとき、人としての「生命」も同時に喪失するのが、最も自然な「男という人間の生き方」だ、とこれまで考えて来たし、その点、筆者自身は、そうした考え方を変える気は(少なくとも、今のところ)全く無い。

   「お前、いい歳して、何言ってるの?まだ女性に執着しているのか!?いい加減にしろよ!」面と向かって、筆者にそう言い放った知り合いの男も居る、それも何年か昔のことだ。

   そんな具体例を示さなくても、「そんなこと言う迄も無いだろ、いい歳をして...。」、という意見の方(かた)が多いことも、略間違いあるまい。

   それでも、筆者の私自身は、今のところ引き下がる心算は毛頭無い。

   何故か?と問われれば、(4)筆者は元々、或る意味で多少とも人体を傷つける結果となる手術は受けないことが、最も望ましい、と略確信している。

   従って、これまで、日帰りの白内障の手術を受けた以外は、入院を伴う手術など一切受けたことは無い。そもそも病院に入院したことなど、一度も無い。

   だから、医療費を極力抑制しよう、と形振り構わず躍起になっている、今のお国の国策に、実は神妙に従っていることになる。

   そんな悪態は扨(さて)置き、こんな丈夫な身体を授けてくれた、105歳で天寿を全うした母に先ず感謝すると共に、鹿児島県甑島の母の祖先には、大いに感謝せねばならぬだろう。

   そんな考えから、筆者の信条は、自覚症状として、疾病による機能不全や激しい苦痛を感じない限り、「手術は無用」、況してや日本人の平均寿命をクリアした高齢者においておや、ということになる。

   また、『前立腺肥大症に対する最新式のレーザー手術(PVP)』というのも、あるようだから筆者が、止むなく検討するとすれば、前立腺は摘出せず、患部を削り取る感じの、こちらの方が望ましいだろう、と考えている。

    さて、或る意味で、これから将に本題に入ろうか?というところで、紙面が尽きてしまった。筆者のバランス感覚が不適切であったことをお詫びせねばならぬが、このテーマ、(任侠道では無いが)「男として生まれた以上、男のまま死にたい!(仮題)」は、別途、新たなコラムとして、日を改めて挑戦してみたい、と考えて居る。

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筆者:ぶらいおん(詩人、フリーライター)

東京で生まれ育ち、青壮年を通じて暮らし、前期高齢者になってから、父方ルーツ、万葉集ゆかりの当地へ居を移し、地域社会で細(ささ)やかに活動しながら、105歳(2016年)で天寿を全うした母の老々介護を続けた。今は自身も、日々西方浄土を臨みつつ暮らす後期高齢者。https://twitter.com/buraijoh
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