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83歳筆者が考える「感性の劣化」...若い世代との共感を保つため、必要なこと

ぶらいおん

ぶらいおん

2016.11.01 11:00
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「応援上映」「#イマソラ」人気に思う

   10月5日の毎日新聞夕刊(関西版)第一面の半分くらいのスペースを占める「追跡2016」の大見出し"躍る映画館「応援上映」"の下に、大阪梅田の劇場アニメ通称キンプリの上映で、公開当初は閑古鳥が鳴いていたが、3週目から応援上映スタイルに切換えたところ、異例のロングランを記録。これまでに47万人を動員し、興行収入は当初見込みを大幅に上回る8億円超になった、と報じられている。

   実は、筆者もこの応援上映について、既にコラムを書いていた。すなわち、こちらの見出しは、『83歳筆者が考える「応援上映」...リアルとバーチャルが混淆する、現代ならではの流行か 』2016/9/20 11:00

   内容は、こちらを参照して頂けばよいが、正直に申して「自分が述べた意見」について、些か戸惑っている、というのが偽りの無いところ、本心だ。それは、この報道による『興行収入は当初見込みを大幅に上回る8億円超になった』という事実である。

   筆者は、「応援上映」の盛り上がりを一過性の、専ら若い女性を中心とする、単なる昔のはしかの流行のようなものだろう、と高を括っていた。つまり、時が経てば急激に萎んでしまう徒花(あだばな)に違いない、と思い込んでいた。

   しかし、ここで、もう一つ、改めて考え直してみた方がよいように思われる事態に気付いた。

   それは矢張り、この文章を書いている筆者自身の「感性の劣化」が、最初に筆者が下した判断にも影響しているのではないだろうか?という、今まで漠然と危惧してきた事態を、改めて、より痛切に感じ取った、ということである。

   その最大の理由は、物事を己の肌から直接感じるには、どうしても、その中に自分の身を置かねばならない、ということだ。「応援上映」の例で云えば、自身のコラムでも、予めお断りしたように、筆者は「応援上映」が上映されている場に実際に足を運び、その中に身を置いて、判断したというわけでは無い。目で読めるデータと、「応援上映」のプロモーション・ビデオを観たに過ぎない。

   人間の理解というものは、観念的に理解出来た、と思っても、その中にどっぷり浸かって肌で感じたものとは、自ずから違いが出るものだ。

   筆者は、頭だけで解釈し、「応援上映」の形式で、現在成立しているパターンを、上でも触れたように、『アニメ映像と、自分との間で双方向コミュニケーションが成立!と誤解した若い女性達の一過性の熱病だろう』位に考えて居たが、実際の興行成績の数字を突きつけられて、改めて、考え直してみると、その成功をもたらした観客の大多数は「別に双方向コミュニケーション」の場を求めたわけでは無く、同類の大勢の観客同士が、「同じ場所で、同じ時刻、共通の関心事に関わっている」という一体感をこそ求めていて、それで、あの「応援上映」の場で、その満足感が得られた、ということでは無いのか?と改めて思った。

   この考えが的を射てるか、どうか?それは私には分からない。しかし、その事実を補填するであろうインスタグラムの「#イマソラ」の熱心な投稿者達の発言を(NHKのドキュメンタリーTVで)聞いてみると、そこには矢張り共通項が存在するように思える。

   ここで、念の為「#イマソラ」を説明しておくと、インターネット上の[#辞典]なるものには、こうある。『あなたも、この空を見ていますか?Instagramのハッシュタグ#イマソラ...』要は、今、撮影した空の写真を投稿する際につけるハッシュタグであって、過去の場合は「#カコソラ」となるらしい。

   大抵、空の写真は、都会でも、田舎でも、また誰が撮っても、殆ど美しいものばかりだ。観る人々の心を慰めるものであることは間違い無い。そして撮影者達は自分の写真をアップロードする際同時に、同好の仲間達の写真を見ることによって、そこでは、現実世界である職場や学校の教室での「軋轢」や「疎外感」から離れることが出来、同じフィールドで、同じ被写体を追っている仲間達の存在を身近にを感じ取ることが出来るに違いない。
   インターネット上の、或る特定の空間には、間違い無く仲間達が存在する、という思いに至ることによって、平和な連帯感のようなものを各自が、獲得できる出来るのであろうか。

   この後者のケースは筆者でも、然程極端に肉体的負担を要すること無く、参加できそうなので、何れ試してみよう。こんなことを書いたのは、先の「応援上映」のようなケースでは、自分の身を、少なくとも上映館まで運び、費用を掛けて入館し、映像が上映されている間、その場で、他の観客達に混じって、定められた時間に亘り、わが身をそこで(大袈裟に言えば)拘束状態としなければ、観客達の一体感状況を感知することは叶わないからである。

   そして、そのような諸条件をクリアすることは、一般的に言って、高齢者にとっては、それなりのハードルがあり、若者や壮年時代の人々とは、ちょっと事情が異なる。だから、そのような場合、肉体的負担や経済的負担が高齢者にとっては、決して馬鹿にならないのである。

   つまり、殆どハンディを意識することも無く、その場に容易に身を置き、しかも己を心身共に解放した状態に到達させるのは、高齢者にとって、(たとえ、彼もしくは彼女自身が、その対象に相当高い関心を有している場合ですら)なかなかに困難ということになるのだ。勢い、或る対象に対する感性が劣化せざるを得ないという事態に立ち至るのは、これまた、自然の成り行きなのかも知れない。

   それは、自分より若い世代の人々と接したり、行動を共にしたりする機会があると、(改めて筆者は、)自分が既に彼らとは同じ舞台上に立っていないことを痛切に感じさせられるのだ!

   この事態は、明らかに、筆者サイドの感覚であり、偶々私と関わった(筆者より)年下の人達が意識して、筆者がその状態にあることを思い知らせようとしたわけでも何でも無い。だが、高齢者の一人である筆者は、そうは感じない。たとえ、普段それを忘れてしまって(特に高齢者のみ世帯では)いたとしても、異なる世代の人々と接したときに「自分が既に舞台から退場してしまった登場人物の一人である」ことを改めて、痛感させられる。

   それは、どう?言ったらよいのだろう。今、より若い世代の人々と共有しているはずの世界が、以前と違って、何かよそよそしいものとして感じられるようになってしまったことである。自分の立ち位置というのが、どこか空々しく、その中に自然にどっぷり浸かっていて、特別な意識などしていない、という感覚からは程遠いように思えてならない。それは、実は、とても淋しいことでもある。

   「老兵はただ消え去るのみ」と格好つけてみても、本当のところは「寂しくて、情けないばかりだ」。人間にとって、矢張り一番こたえるのは、大勢の人達が居て、自分もその中の一員として自然に溶け込んで存在していることである。その点、悟りの境地にまで達した人物なら、たとえどんな事態が起ころうとも、そんなことで動じることもあるまいが、筆者のような、ごく普通の小人(?)にとっては、疎外されたような居心地の悪い状態に身を置く事は、それだけで、日常生活における大問題となるのである。

   しかし、また、そんなことは、(人にもよるだろうが)自然の流れに過ぎず、殊更気にしないのが普通なのかも知れない。

   にも、拘わらず、それを意識したとすれば、それが、その人にとって、将に老化の兆し以外の何ものでもないのだろう。以前公開したコラムにも書いているが、老人となるまでは、誰しもが殊更意識せずに、普通にこなしている歩行や、衣服の着替えなどという日常生活における行動が、改めて、意識し直し、また失敗(例えば、転倒)しないように極力注意を払って、努力しなければ困難となる事態、そういうことが現実の我が身に起こったとき、人は愕然として、為す術も無いまま日々衰え、何れは生命の消滅に至るケースだって、決して少なく無い筈だ。

   私が言いたいのは、「感性」を劣化させることなく、その侭維持して行くか、あるいはそれ以上に高めるためには、「感知」すべきフィールドに我が身を置かない限り、つまり、所詮生身の人間という存在である限り、その成否は一重に、その必要条件を確実に確保し得るか、否かに懸かっている、と考える。

   「老化」という生理的現象は、その種の必要条件を維持することを、大なり小なり困難にする。それを自覚しつつ、どこまでその必要条件を維持し得るか?それは、一(いつ)に、そのご当人に課せられた課題と言えよう。

   自戒であるが、元々若い人達と同じ感性を持とうとしても、それはハナから無理というもので、出来るのは、可能な限り柔軟に、先入観を持たず、想像力を豊かにし、限りなく若い人々の感性に近付こう、という忍耐と不断の努力くらいしかなく、それによって、初めて、少しは目標に近付くことも出来るのであろう。

   そのためには、これまでも書いて来たように、高齢者は肉体を鍛えること、可能な限りそのフィールドに身を置くよう努めること、そして、或る意味で頭の中を空っぽにして置くこと等、が求められることになる。

   生き物が老化するものである以上、これらの条件が努力によって担保されない限り、急速な「感性」の劣化は誰にとっても、避けようの無い事態となるのは間違い無い。

   従って、その成り行きを受け入れたくない高齢者はもとより、その予備群たる青壮年世代の諸君も、無関心に日を送るのでは無く、その日に備えて、容易に「感性」の劣化を招かないために、不断の努力を怠らないことこそ肝要である。

   「瑞々しい感性」というのは、ヒトの五感を高いレベルに保つための貴重な資質の一つである。しかし、普通の市井人であれば、殊更、高度のそれを求めることも、また一般的に余り無いだろう。ただ、豊かな「感性」を持つ人は、人間として恵まれた人生を送れるケースが圧倒的に多いであろう、と考えられるし、また高齢者においては、若者たちと共感できる世界に長く身を置くことが可能となり、彼らからの思わぬボーナスとして、若いエネルギ-を受け取ったりするチャンスもあるかも知れない。だから、ここで「感性」を高め、維持するための普段からの努力を怠たってはなるまい、と筆者は改めて自戒するのである。

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筆者:ぶらいおん(詩人、フリーライター)

東京で生まれ育ち、青壮年を通じて暮らし、前期高齢者になって、父方ルーツ、万葉集ゆかりの当地へ居を移し、今は地域社会で細(ささ)やかに活動しながら、西方浄土に日々臨む後期高齢者、現在100歳を超える母を介護中。https://twitter.com/buraijoh