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芭蕉が訪れた証拠はないのに、なぜ存在? 天橋立にある「芭蕉の句碑」の謎を追う

松葉 純一

松葉 純一

2021.08.16 06:00
京都府宮津市成相寺にある「成相山パノラマ展望台」から見た天橋立(Asturio Cantabrioさん撮影、Wikimedia Commonsより)
京都府宮津市成相寺にある「成相山パノラマ展望台」から見た天橋立(Asturio Cantabrioさん撮影、Wikimedia Commonsより)

京都府北部の宮津市にある「天橋立」は、宮城県の「松島」、広島県の「宮島」とともに、日本三景と称されている名勝のひとつだ。

長さ約3.6キロ、幅約20~170メートルという細長い砂州に、約5000本もの松が茂っている。その特異な形が、天に架かる橋のように見えることから、天橋立と名付けられたとされている。

この天橋立に、芭蕉の句碑が存在していることが、いまツイッターで注目を集めている。実際に芭蕉は訪れた証拠がないのに、句碑があるというのだ。その案内板には、次のように記されている。

一声塚(芭蕉の句碑)
芭蕉が天橋立に遊んだ証拠もなく、橋立を詠んだ確かな句もないが、
宮津の俳句を楽しむ人々は、芭蕉の塚がないのを残念に思い、この句を選び、
江戸時代、1767年に文殊堂境内に句碑を建立。その後、ここに移設。
『一声の江に  横たふや  ほととぎす』

いったいこれはどういうことだろう?

Jタウンネット記者は宮津市教育委員会、与謝野町教育委員会に聞いてみた。

芭蕉の肖像画を床の間に飾り、句会を開いた

天橋立の砂浜(Tenkyoritsuさん撮影、Wikimedia Commonsより)
天橋立の砂浜(Tenkyoritsuさん撮影、Wikimedia Commonsより)

宮津市教育委員は、「数年前にまとめた資料がありますので、参考になるかもしれません」とPDFを送ってくれた。「宮津天の橋立の文化的景観~文化的景観調査報告書」という文書の抜粋だった。そこには、こう書かれていた。

「一声塚
千貫松の北側に位置する。与謝野蕪村が宮津を去った後、真照寺鶯十らによって、蕉風復興運動の中心人物であった俳僧・中川蝶夢が京都より招かれ、宮津俳壇との交流を深めた。
この句碑は、蝶夢が松尾芭蕉の句を選んで建てたもので、一声塚と呼ばれている。『一声の 江に横たふる ほととぎす  芭蕉』と刻まれている。
芭蕉50歳の頃、息子の桃印を病気で亡くした悲しみの中、隅田川畔の住まいで詠んだ句で、天橋立にちなんだものではない。同碑は智恩寺に建てられた後、天橋立内に移されたと伝えられる。」(「宮津天の橋立の文化的景観〜文化的景観調査報告書」2014年3月、宮津市)

今から約250年前の宮津の俳壇の人々が、鶯十さんという真照寺の住職を中心に活動していたらしい。松尾芭蕉を崇拝する彼らは、京都から中川蝶夢という蕉風復興運動の中心人物を招き、句碑建立を実現した、ということだ。

宮津市教育委員会からは、隣町の与謝野町の教育委員会に詳しい人がいるので、聞いてみてはどうだろう、と助言があった。

アドバイスに従って与謝野町教育委員会に電話すると、同委員会の竹下浩二さんが質問に答えてくれた。

「当時の宮津の俳壇は、真照寺など寺院で句会を開いていたようです。句会に際しては、床の間に松尾芭蕉の肖像画の掛け軸を飾ったり、木彫りの像を設置したりして、芭蕉を顕彰していたようです。それほど芭蕉を敬う伝統があったのだと思われます。芭蕉は、江戸時代の俳人たちにとって、かけがえのない拠り所だったようです」
「塚というのは、墓を意味します。ほととぎすの鳴き声は、ここ天橋立でもよく聴かれる、親しみのある野鳥です。水辺の情景も共通しています。たとえ江戸の隅田川河畔で詠まれた句であっても、ほととぎすを詠った句が刻まれた塚は、彼らにとって芭蕉の墓に近いものだったのではないかと考えられます。まさに『聖地』のようなものとして崇められていたと思われます」(与謝野町教育委員会・竹下浩二さん)

なぜ天橋立に芭蕉の句碑があるのか?

江戸時代の俳人たちにとって、松尾芭蕉は聖人(俳聖)であり、宮津の俳人たちは身近な場所に聖地を作りたかったのだと考えれば、理解できるかもしれない。

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