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芭蕉が訪れた証拠はないのに、なぜ存在? 天橋立にある「芭蕉の句碑」の謎を追う

松葉 純一

松葉 純一

2021.08.16 06:00
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芭蕉の肖像画を床の間に飾り、句会を開いた

天橋立の砂浜(Tenkyoritsuさん撮影、Wikimedia Commonsより)
天橋立の砂浜(Tenkyoritsuさん撮影、Wikimedia Commonsより)

宮津市教育委員は、「数年前にまとめた資料がありますので、参考になるかもしれません」とPDFを送ってくれた。「宮津天の橋立の文化的景観~文化的景観調査報告書」という文書の抜粋だった。そこには、こう書かれていた。

「一声塚
千貫松の北側に位置する。与謝野蕪村が宮津を去った後、真照寺鶯十らによって、蕉風復興運動の中心人物であった俳僧・中川蝶夢が京都より招かれ、宮津俳壇との交流を深めた。
この句碑は、蝶夢が松尾芭蕉の句を選んで建てたもので、一声塚と呼ばれている。『一声の 江に横たふる ほととぎす  芭蕉』と刻まれている。
芭蕉50歳の頃、息子の桃印を病気で亡くした悲しみの中、隅田川畔の住まいで詠んだ句で、天橋立にちなんだものではない。同碑は智恩寺に建てられた後、天橋立内に移されたと伝えられる。」(「宮津天の橋立の文化的景観〜文化的景観調査報告書」2014年3月、宮津市)

今から約250年前の宮津の俳壇の人々が、鶯十さんという真照寺の住職を中心に活動していたらしい。松尾芭蕉を崇拝する彼らは、京都から中川蝶夢という蕉風復興運動の中心人物を招き、句碑建立を実現した、ということだ。

宮津市教育委員会からは、隣町の与謝野町の教育委員会に詳しい人がいるので、聞いてみてはどうだろう、と助言があった。

アドバイスに従って与謝野町教育委員会に電話すると、同委員会の竹下浩二さんが質問に答えてくれた。

「当時の宮津の俳壇は、真照寺など寺院で句会を開いていたようです。句会に際しては、床の間に松尾芭蕉の肖像画の掛け軸を飾ったり、木彫りの像を設置したりして、芭蕉を顕彰していたようです。それほど芭蕉を敬う伝統があったのだと思われます。芭蕉は、江戸時代の俳人たちにとって、かけがえのない拠り所だったようです」
「塚というのは、墓を意味します。ほととぎすの鳴き声は、ここ天橋立でもよく聴かれる、親しみのある野鳥です。水辺の情景も共通しています。たとえ江戸の隅田川河畔で詠まれた句であっても、ほととぎすを詠った句が刻まれた塚は、彼らにとって芭蕉の墓に近いものだったのではないかと考えられます。まさに『聖地』のようなものとして崇められていたと思われます」(与謝野町教育委員会・竹下浩二さん)

なぜ天橋立に芭蕉の句碑があるのか?

江戸時代の俳人たちにとって、松尾芭蕉は聖人(俳聖)であり、宮津の俳人たちは身近な場所に聖地を作りたかったのだと考えれば、理解できるかもしれない。

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